「人間は死ぬことを恐れていて、死後も、自分が存在していたことを他の人の記憶に残したいと願っている。コミュニケーションとは、その手段のひとつである。」というような内容が紹介されていて、考えてしまいました。

その話を職場の友人に話しましたら、Ozymandias という詩を教えてくれました。

ホームスクーラーを持つ親のほとんどは、(ホームスクールでは)社会性が欠如するとか、コミュニケーションを持たなくなるのではと言われた経験があるかと思います。
私はそうした時、参加しているプログラムを数え上げて、結構ムキになって「心配ないです!」って答えていました。

この詩を読み、そしていろいろな方の解釈を読んで考えました。実はあまりよく理由も考えずに、社会性とかコミュニケーションスキルというものがものすごく重要度の高いものである信じていて、それで批判されたような気になり、反論めいた言動をしていたのかもと。

でも、もし社会性とかコミュニケーションというものが、自分の存在を他人の記憶に残しておきたいという、利己的な要求からくるものであるのであれば、そのスキルや能力が多少低くても、責められるべきものではないのではないかと。

まだいろいろ考えを巡らせている最中ですが、これからしばらくは、J君の社会性について問われたら、「そうかもしれません。」と答えようと思います。